今は昔、阿蘇のなにがしといふ史ありけり。
今では昔のことだが、阿蘇のだれそれという史がいた。
・今 … 名詞
・は … 係助詞
・昔 … 名詞
・阿蘇(あそ)のなにがし … 名詞
・と … 格助詞
・いふ … ハ行四段活用の動詞「いふ」の連体形
・史(さかん) … 名詞
○史 … 太政官の第四等官
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
たけ短なりけれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。
背丈は低かったけれども、精神は並々でない悪いやつだった。
・たけ … 名詞
・短(ひき)なり … ナリ活用の形容動詞「短なり」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ども … 接続助詞
・魂 … 名詞
・は … 係助詞
・いみじき … シク活用の形容詞「いみじ」の連体形
○いみじ … 並の程度ではない
・盗人(ぬすびと) … 名詞
○盗人 … 悪いやつ
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・て … 接続助詞
・ぞ … 係助詞・強調
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形(結び)
家は西の京にありければ、公事ありて内に参りて、
家は西の京にあったので、朝廷の公務があって内裏へ参上して、
・家 … 名詞
・は … 係助詞
・西の京 … 名詞
○西の京 … 平安京で朱雀大路より西側の地域
・に … 格助詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・公事(くじ) … 名詞
○公事 … 朝廷における公務
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・て … 接続助詞
・内(うち) … 名詞
○内 … 宮中
・に … 格助詞
・参り … ラ行四段活用の動詞「参る」の連用形
○参る … 宮中に参上する(謙譲語) ⇒ 筆者から帝への敬意
・て … 接続助詞
夜更けて家に帰りけるに、東の中の御門より出でて、
夜が更けて家に帰っていたが、東の中の御門から出て、
・夜(よ) … 名詞
・更(ふ)け … カ行下二段活用の動詞「更く」の連用形
・て … 接続助詞
・家 … 名詞
・に … 格助詞
・帰り … ラ行四段活用の動詞「帰る」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・に … 接続助詞
・東(ひむがし) … 名詞
・の … 格助詞
・中の御門(みかど) … 名詞
・より … 格助詞
・出(い)で … ダ行下二段活用の動詞「出づ」の連用形
・て … 接続助詞
車に乗りて大宮下りにやらせて行きけるに、
牛車に乗って東大宮大路を南の方へ進ませていた時に、
・車 … 名詞
・に … 格助詞
・乗り … ラ行四段活用の動詞「乗る」の連用形
・て … 接続助詞
・大宮(おおみや) … 名詞
・下(くだ)り … 名詞
・に … 格助詞
・やら … ラ行四段活用の動詞「やる」の未然形
・せ … 使役の助動詞「す」の連用形
・て … 接続助詞
・行き … カ行四段活用の動詞「行く」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・に … 格助詞
着たる装束をみな解きて、片端よりみなたたみて、
着ていた衣服をみんな脱いで、片っ端からみんなたたんで、
・着 … カ行上一段活用の動詞「着る」の連用形
・たる … 存続の助動詞「たり」の連体形
・装束(そうぞく) … 名詞
○装束 … 衣服
・を … 格助詞
・みな … 副詞
・解き … カ行四段活用の動詞「解く」の連用形
・て … 接続助詞
・片端 … 名詞
・より … 格助詞
・みな … 副詞
・たたみ … マ行四段活用の動詞「たたむ」の連用形
・て … 接続助詞
車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、
車の敷物の下にきちんと置いて、その上に敷物を敷いて、
・車 … 名詞
・の … 格助詞
・畳 … 名詞
○畳 … へりを付けたござ
・の … 格助詞
・下 … 名詞
・に … 格助詞
・うるはしく … シク活用の形容詞「うるはし」の連用形
○うるはし … きちんと整っている
・置き … カ行四段活用の動詞「置く」の連用形
・て … 接続助詞
・そ … 代名詞
・の … 格助詞
・上 … 名詞
・に … 格助詞
・畳 … 名詞
・を … 格助詞
・敷き … カ行四段活用の動詞「敷く」の連用形
・て … 接続助詞
史は冠をし、襪を履きて、裸になりて車の内にゐたり。
史は冠をつけ、足袋を履いて、裸になって車の中に座っていた。
・史 … 名詞
・は … 係助詞
・冠(かむり) … 名詞
・を … 格助詞
・し … サ行変格活用の動詞「す」の連用形
・襪(したうず) … 名詞
○襪 … 正装の時にはく靴下
・を … 格助詞
・履き … カ行四段活用の動詞「履く」の連用形
・て … 接続助詞
・裸 … 名詞
・に … 格助詞
・なり … ラ行四段活用の動詞「なる」の連用形
・て … 接続助詞
・車 … 名詞
・の … 格助詞
・内 … 名詞
・に … 格助詞
・ゐ … ワ行上一段活用の動詞「ゐる」の連用形
○ゐる … 座る
・たり … 存続の助動詞「たり」の終止形
さて、二条より西様ざまにやらせて行くに、
そうして、二条大路から西の方向に車を進ませて行くと、
・さて … 接続詞
・二条 … 名詞
・より … 格助詞
・西様(にしざま) … 名詞
・に … 格助詞
・やら … ラ行四段活用の動詞「やる」の未然形
・せ … 使役の助動詞「す」の連用形
・て … 接続助詞
・行く … カ行四段活用の動詞「行く」の連体形
・に … 接続助詞
美福門のほどを過ぐる間に、盗人、傍らよりはらはらといで来ぬ。
美福門の付近を通過する時に、盗人が、そばからばらばらと出て来た。
・美福門(びふくもん) … 名詞
・の … 格助詞
・ほど … 名詞
・を … 格助詞
・過ぐる … ガ行上二段活用の動詞「過ぐ」の連体形
・間 … 名詞
・に … 格助詞
・盗人 … 名詞
・傍(かたわ)ら … 名詞
・より … 格助詞
・はらはらと … 副詞
・出で来(き) … カ行変格活用の動詞「出で来」の連用形
・ぬ … 完了の助動詞「ぬ」の終止形
車の轅に付きて、牛飼ひ童を打てば、童は牛を棄てて逃げぬ。
車の轅の側に寄って、牛飼い童をたたいたので、童は牛を捨てて逃げた。
・車 … 名詞
・の … 格助詞
・轅(ながえ) … 名詞
○轅 … 車の軸から前方に突き出した棒
・に … 格助詞
・付き … カ行四段活用の動詞「付く」の連用形
・て … 接続助詞
・牛飼ひ童(わらわ) … 名詞
・を … 格助詞
・打て … タ行四段活用の動詞「打つ」の已然形
・ば … 接続助詞
・童 … 名詞
・は … 係助詞
・牛 … 名詞
・を … 格助詞
・棄(す)て … タ行下二段活用の動詞「棄つ」の連用形
・て … 接続助詞
・逃げ … ガ行下二段活用の動詞「逃ぐ」の連用形
・ぬ … 完了の助動詞「ぬ」の終止形
車の後に雑色二、三人ありけるも、みな逃げて去にけり。
車の後ろに下働きの者が二、三人いたが、みんな逃げ去ってしまった。
・車 … 名詞
・の … 格助詞
・後(しり) … 名詞
・に … 格助詞
・雑色(ぞうしき) … 名詞
○雑色 … 雑役に従事する下働きの者
・二、三人 … 名詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・も … 係助詞
・みな … 副詞
・逃げ … ガ行下二段活用の動詞「逃ぐ」の連用形
・て … 接続助詞
・去(い)に … ナ行変格活用の動詞「去ぬ」の連用形
○去ぬ … 立ち去る
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
盗人寄り来て、車の簾を引き開けて見るに、
盗人が近寄って来て、車の簾を引き開けて見ると、
・盗人 … 名詞
・寄り来 … カ行変格活用の動詞「寄り来」の連用形
・て … 接続助詞
・車 … 名詞
・の … 格助詞
・簾(すだれ) … 名詞
・を … 格助詞
・引き開け … カ行下二段活用の動詞「引き開く」の連用形
・て … 接続助詞
・見る … マ行上一段活用の動詞「見る」の連体形
・に … 接続助詞
裸にて史ゐたれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、
裸で史が座っていたので、盗人は、「あきれた。」と思って、
・裸 … 名詞
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・て … 接続助詞
・史 … 名詞
・ゐ … ワ行上一段活用の動詞「ゐる」の連用形
・たれ … 存続の助動詞「たり」の已然形
・ば … 接続助詞
・盗人 … 名詞
・あさまし … シク活用の形容詞「あさまし」の終止形
○あさまし … 驚きあきれたことである
・と … 格助詞
・思ひ … ハ行四段活用の動詞「思ふ」の連用形
・て … 接続助詞
「こはいかに。」と問へば、
「これはどうしたのだ。」と尋ねると、
・こ … 代名詞
・は … 係助詞
・いかに … 副詞
・と … 格助詞
・問へ … ハ行四段活用の動詞「問ふ」の已然形
・ば … 接続助詞
史、「東の大宮にて、かくのごとくなりつる。君達寄り来て、
史は、「東の大宮大路で、このようになった。貴公子達が寄って来て、
・史 … 名詞
・東 … 名詞
・の … 格助詞
・大宮 … 名詞
・にて … 格助詞
・かく … 副詞
・の … 格助詞
・ごとく … 比況の助動詞「ごとし」の連用形
・なり … ラ行四段活用の動詞「なる」の連用形
・つる … 完了の助動詞「つ」の連体形
・君達(きんだち) … 名詞
○君達 … 貴公子、高貴な家柄の子息
・寄り来 … カ行変格活用の動詞「寄り来」の連用形
・て … 接続助詞
己が装束をばみな召しつ。」と笏を取りて、
私の正装をことごとくお取り上げなさった。」と笏を手にして、
・己 … 代名詞
・が … 格助詞
・装束 … 名詞
・を … 格助詞
・ば … 係助詞
・みな … 副詞
・召し … サ行四段活用の動詞「召す」の連用形
○召す … お取り寄せになる(尊敬語) ⇒ 史から君達への敬意
・つ … 完了の助動詞「つ」の終止形
・と … 格助詞
・笏(しやく) … 名詞
・を … 格助詞
・取り … ラ行四段活用の動詞「取る」の連用形
・て … 接続助詞
よき人にもの申すやうにかしこまりて答へければ、
高貴な人にものを申し上げるように恐れつつしんで答えたので、
・よき … ク活用の形容詞「よし」の連体形
○よし … 身分が高い
・人 … 名詞
・に … 格助詞
・もの申す … サ行四段活用の動詞「もの申す」の連体形
○もの … 接頭語
○申す … 「言ふ」の謙譲語 ⇒ 筆者からよき人への敬意
・やうに … 比況の助動詞「やうなり」の連用形
・かしこまり … ラ行四段活用の動詞「かしこまる」の連用形
・て … 接続助詞
・答へ … ハ行下二段活用の動詞「答ふ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
盗人笑ひて捨てて去にけり。
盗人は笑ってそのままにして立ち去った。
・盗人 … 名詞
・笑ひ … ハ行四段活用の動詞「笑ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・捨て … タ行下二段活用の動詞「棄つ」の連用形
・て … 接続助詞
・去に … ナ行変格活用の動詞「去ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
その後、史、声を上げて牛飼ひ童をも呼びければ、
その後で、史が、大きな声を出して牛飼い童を呼んだところ、
・そ … 代名詞
・の … 格助詞
・後(のち) … 名詞
・史 … 名詞
・声 … 名詞
・を … 格助詞
・上げ … ガ行下二段活用の動詞「上ぐ」の連用形
・て … 接続助詞
・牛飼ひ童 … 名詞
・を … 格助詞
・も … 係助詞
・呼び … バ行四段活用の動詞「呼ぶ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
みな出で来にけり。それよりなむ家に帰りにける。
みんなが出て来た。それから家に帰ったのだった。
・みな … 副詞
・出で来 … カ行変格活用の動詞「出で来」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
・それ … 代名詞
・より … 格助詞
・なむ … 係助詞・強調
・家 … 名詞
・に … 格助詞
・帰り … ラ行四段活用の動詞「帰る」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形(結び)
さて、妻にこの由を語りければ、妻のいはく、
そうして、妻にこのいきさつを話したところ、妻が言うには、
・さて … 接続詞
・妻(め) … 名詞
・に … 格助詞
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・由(よし) … 名詞
○由 … 事情
・を … 格助詞
・語り … ラ行四段活用の動詞「語る」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・妻 … 名詞
・の … 格助詞
・いは … ハ行四段活用の動詞「いふ」の未然形
・く … 接尾語
「その盗人にも増さりたりける心にておはしける。」と
「その盗人をも超えた悪い心でいらっしゃったことよ。」と
・そ … 代名詞
・の … 格助詞
・盗人 … 名詞
・に … 格助詞
・も … 係助詞
・増さり … ラ行四段活用の動詞「増さる」の連用形
・たり … 存続の助動詞「たり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・心 … 名詞
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・て … 接続助詞
・おはし … サ行変格活用の動詞「おはす」の連用形
○おはす … 「あり」の尊敬語 ⇒ 妻から史への敬意
・ける … 詠嘆の助動詞「けり」の連体形
・と … 格助詞
言ひてぞ笑ひける。まことにいとおそろしき心なり。
言って笑った。ほんとうに非常に驚くべき精神だ。
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・ぞ … 係助詞・強調
・笑ひ … ハ行四段活用の動詞「笑ふ」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形(結び)
・まことに … 副詞
・いと … 副詞
・おそろしき … シク活用の形容詞「おそろし」の連体形
・心 … 名詞
・なり … 断定の助動詞「なり」の終止形
装束をみな解きて隠しおきて、しか言はむと思ひける心ばせ、
装束をみんな脱いで隠しておいて、そう言おうと思った気のきき方、
・装束 … 名詞
・を … 格助詞
・みな … 副詞
・解き … カ行四段活用の動詞「解く」の連用形
・て … 接続助詞
・隠しおき … カ行四段活用の動詞「隠しおく」の連用形
・て … 接続助詞
・しか … 副詞
・言は … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の未然形
・む … 意志の助動詞「む」の終止形
・と … 格助詞
・思ひ … ハ行四段活用の動詞「思ふ」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・心ばせ … 名詞
さらに人の思ひ寄るべきことにあらず。
決して普通の人の思いつくようなことではない。
・さらに … 副詞
・人 … 名詞
・の … 格助詞
・思ひ寄る … ラ行四段活用の動詞「思ひ寄る」の終止形
・べき … 当然の助動詞「べし」の連体形
・こと … 名詞
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形
この史は極めたる物言ひにてなむありければ、
この史は格別に能弁で機転のきく者だったので、
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・史 … 名詞
・は … 係助詞
・極め … マ行下二段活用の動詞「極む」の連用形
・たる … 存続の助動詞「たり」の連体形
・物言ひ … 名詞
○物言ひ … 口の達者な者
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・て … 接続助詞
・なむ … 係助詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
かくも言ふなりけり、となむ語り伝へたるとや。
このように言ったのだった、と語り伝えているということだ。
・かく … 副詞
・も … 係助詞
・言ふ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連体形
・なり … 断定の助動詞「なり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
・と … 格助詞
・なむ … 係助詞・強調
・語り伝へ … ハ行下二段活用の動詞「語り伝ふ」の連用形
・たる … 存続の助動詞「たり」の連体形(結び)
・と … 格助詞
・や … 係助詞