これも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。
これも今では昔のことだが、絵仏師良秀という者がいた。
・これ … 代名詞
・も … 係助詞
・今 … 名詞
・は … 係助詞
・昔 … 名詞
・絵仏師良秀(りようしう) … 名詞
・と … 格助詞
・いふ … ハ行四段活用の動詞「いふ」の連体形
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
家の隣より火出で来て、風おしおほひて
家の隣から出火して、風がおおいかぶさるように吹いて
・家 … 名詞
・の … 格助詞
・隣 … 名詞
・より … 格助詞
・火 … 名詞
・出(い)で来(き) … カ行変格活用の動詞「出で来(く)」の連用形
・て … 接続助詞
・風 … 名詞
・おしおほひ … ハ行四段活用の動詞「おしおほふ」の連用形
○おしおほふ … おおいかぶさる、「おし」は接頭語
・て … 接続助詞
せめければ、逃げ出でて、大路へ出でにけり。
(火が)迫ってきたので、逃げ出して、大通りに出てしまった。
・せめ … マ行下二段活用の動詞「せむ」の連用形
○せむ … 近づく
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・逃げ出で … ダ行下二段活用の動詞「逃げ出づ」の連用形
・て … 接続助詞
・大路(おおじ) … 名詞
○大路 … 大通り
・へ … 格助詞
・出で … ダ行下二段活用の動詞「出づ」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
人の書かする仏もおはしけり。
人が描かせている仏もいらっしゃった。
・人 … 名詞
・の … 格助詞
・描か … カ行四段活用の動詞「描く」の未然形
・する … 使役の助動詞「す」の連体形
・仏 … 名詞
・も … 係助詞
・おはし … サ行変格活用の動詞「おはす」の連用形
○おはす … いらっしゃる
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
また、衣着ぬ妻子なども、さながら内にありけり。
また、着物を着ていない妻や子なども、そのまま家の中にいた。
・また … 接続詞
・衣(きぬ) … 名詞
・着 … カ行上一段活用の動詞「着る」の未然形
・ぬ … 打消の助動詞「ず」の連体形
・妻子(めこ) … 名詞
・など … 副助詞
・も … 係助詞
・さながら … 副詞
○さながら … そのままの状態で
・内 … 名詞
・に … 格助詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
それも知らず、ただ逃げ出でたるをことにして、
それも気にかけず、ただ逃げ出したのをよいことにして、
・それ … 代名詞
・も … 係助詞
・知ら … ラ行四段活用の動詞「知る」の未然形
○知る … 気にかける
・ず … 打消の助動詞「ず」の連用形
・ただ … 副詞
・逃げ出で … ダ行下二段活用の動詞「逃げ出づ」の連用形
・たる … 完了の助動詞「たり」の連体形
・を … 格助詞
・こと … 名詞
・に … 格助詞
・し … サ行変格活用の動詞「す」の連用形
○ことにす … よいことにする
・て … 接続助詞
向かひのつらに立てり。見れば、すでに我が家に移りて、
向かい側あたりに立っていた。見ると、すでに自分の家に燃え移って、
・向かひ … 名詞
・の … 格助詞
・つら … 名詞
○つら … あたり
・に … 格助詞
・立て … タ行四段活用の動詞「立つ」の已然形
・り … 存続の助動詞「り」の終止形
・見れ … マ行上一段活用の動詞「見る」の已然形
・ば … 接続助詞
・すでに … 副詞
・わ … 代名詞
・が … 格助詞
・家 … 名詞
・に … 格助詞
・移り … ラ行四段活用の動詞「移る」の連用形
・て … 接続助詞
煙、炎くゆりけるまで、おほかた向かひのつらに立ちて
煙や炎がくすぶり出した頃まで、ほとんど向かい側あたりに立って
・煙(けぶり) … 名詞
・炎 … 名詞
・くゆり … ラ行四段活用の動詞「くゆる」の連用形
○くゆる … くすぶる
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・まで … 副助詞
・おほかた … 副詞
○おほかた … ほとんど
・向かひ … 名詞
・の … 格助詞
・つら … 名詞
・に … 格助詞
・立ち … タ行四段活用の動詞「立つ」の連用形
・て … 接続助詞
眺めければ、「あさましきこと。」とて、
眺めていたので、「たいへんなことですね。」と言って、
・眺め … マ行下二段活用の動詞「眺む」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・あさましき … シク活用の形容詞「あさまし」の連体形
○あさまし … 驚きあきれるさま
・こと … 名詞
○〜こと … 〜ことだなあ
・とて … 格助詞
人ども来とぶらひけれど、騒がず。
人々が来て見舞ったけれども、動じない。
・人ども … 名詞
・来(き) … カ行変格活用の動詞「来(く)」の連用形
・とぶらひ … ハ行四段活用の動詞「とぶらふ」の連用形
○とぶらふ … 見舞う
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ど … 接続助詞
・騒が … ガ行四段活用の動詞「騒ぐ」の未然形
○騒ぐ … 動揺する
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形
「いかに。」と人言ひければ、向かひに立ちて、
「どうしたのですか。」と人が言ったところ、向かい側に立って、
・いかに … 副詞
○いかに … なぜ〜か
・と … 格助詞
・人 … 名詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・向かひ … 名詞
・に … 格助詞
・立ち … タ行四段活用の動詞「立つ」の連用形
・て … 接続助詞
家の焼くるを見て、うちうなづきて、ときどき笑ひけり。
家が焼けるのを見て、うなずいて、ときどき笑っていた。
・家 … 名詞
・の … 格助詞
・焼くる … カ行下二段活用の動詞「焼く」の連体形
・を … 格助詞
・見 … マ行上一段活用の動詞「見る」の連用形
・て … 接続助詞
・うちうなづき … カ行四段活用の動詞「うちうなづく」の連用形
・て … 接続助詞
・時々 … 副詞
・笑ひ … ハ行四段活用の動詞「笑ふ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
○「うちうなづきて、時々笑ひけり。」とあるが、良秀はどのような気持ちから笑ったのか。 ⇒ 家が焼けるのを見ながら火はこのように燃えるのだと納得し、大変なもうけものをしたなあという気持ちから良秀は笑った。
「あはれ、しつるせうとくかな。
「ああ、たいへんなもうけものをしたことよ。
・あはれ … 感動詞
・し … サ行変格活用の動詞「す」の連用形
・つる … 完了の助動詞「つ」の連体形
・せうとく … 名詞
○せうとく … もうけ
・かな … 終助詞・詠嘆
年ごろはわろく書きけるものかな。」と言ふ時に、
長年の間下手に描いてきたものだなあ。」と言う時に、
・年ごろ … 名詞
○年ごろ … 長年の間
・は … 係助詞
・わろく … ク活用の形容詞「わろし」の連用形
○わろし … (作品の)できがよくない
・描き … カ行四段活用の動詞「描く」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・もの … 名詞
・かな … 終助詞
・と … 格助詞
・言ふ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連体形
・とき … 名詞
・に … 格助詞
とぶらひに来たる者ども、「こはいかに、
見舞いに来た人たちが、「これはどうして、
・とぶらひ … 名詞
・に … 格助詞
・来(き) … カ行変格活用の動詞「来(く)」の連用形
・たる … 完了の助動詞「たり」の連体形
・者ども … 名詞
・こ … 代名詞
・は … 係助詞
・いかに … 副詞
かくては立ち給へるぞ。あさましきことかな。
このようにお立ちになっているのか。あきれたことだなあ。
・かくて … 副詞
・は … 係助詞
・立ち … タ行四段活用の動詞「立つ」の連用形
・たまへ … ハ行四段活用の動詞「たまふ」の已然形
○たまふ … 尊敬の補助動詞
・る … 存続の助動詞「り」の連体形
・ぞ … 係助詞・疑問
・あさましき … シク活用の形容詞「あさまし」の連体形
・こと … 名詞
・かな … 終助詞・詠嘆
物のつき給へるか。」と言ひければ、
霊が取りついていらっしゃるのか。」と言ったところ、
・物 … 名詞
○物 … 超自然的なもの(霊、物の怪)
・の … 格助詞
・つき … カ行四段活用の動詞「つく」の連用形
・たまへ … ハ行四段活用の動詞「たまふ」の已然形
○たまふ … 尊敬の補助動詞
・る … 存続の助動詞「り」の連体形
・か … 係助詞
・と … 格助詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
○人々が「物のつき給へるか。」と言ったのはなぜか。 ⇒ 向かいに立って、自分の家が焼けるのを見て、時々笑いながら「ああ、大変なもうけものをしたなあ。」と良秀が言ったから。
「なんでふ物のつくべきぞ。
「どうして霊が取りつくはずがあろうか。
・なんでふ … 副詞
○なんでふ … どうして
・もの … 名詞
・の … 格助詞
・つく … カ行四段活用の動詞「つく」の終止形
・べき … 当然の助動詞「べし」の連体形
・ぞ … 係助詞・反語
年ごろ不動尊の火炎を悪しく書きけるなり。
長年の間不動尊の火炎を下手に描いてきたのだ。
・年ごろ … 名詞
・不動尊 … 名詞
・の … 格助詞
・火炎 … 名詞
・を … 格助詞
・悪(あ)しく … シク活用の形容詞「悪し」の連用形
○悪し … 下手である
・描き … カ行四段活用の動詞「描く」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・なり … 断定の助動詞「なり」の終止形
今見れば、かうこそ燃えけれと、心得つるなり。
今見たところ、このように燃えるのだなあと、理解できたのだ。
・今 … 名詞
・見れ … マ行上一段活用の動詞「見る」の已然形
・ば … 接続助詞
・かう … 副詞
・こそ … 係助詞
・燃え … ヤ行下二段活用の動詞「燃ゆ」の連用形
・けれ … 詠嘆の助動詞「けり」の已然形
・と … 格助詞
・心得(え) … ア行下二段活用の動詞「心得(う)」の連用形
○心得 … 理解できる
・つる … 完了の助動詞「つ」の連体形
・なり … 断定の助動詞「なり」の終止形
これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらむには、
これこそもうけものだよ。この道を専門にして生きていくには、
・これ … 代名詞
・こそ … 係助詞
・せうとく … 名詞
・よ … 間投助詞
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・道 … 名詞
○この道 … 仏画を描くこと
・を … 格助詞
・立て … タ行下二段活用の動詞「立つ」の連用形
○立つ … 専門にする
・て … 接続助詞
・世 … 名詞
・に … 格助詞
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
○世にあり … 生きている
・む … 婉曲の助動詞「む」の連体形
・に … 格助詞
・は … 係助詞
○良秀が「これこそ、せうとくよ。」と言ったのはなぜか。 ⇒ 火がどのように燃えるのかを明確に知っておくことは、絵仏師を職業とする自分にとって一軒の家など比較にならないくらい大きな価値を持っているから。
仏だによく書き奉らば、百千の家も出で来なむ。
仏様さえ上手に描き申し上げたなら、百や千の家もきっと建つだろう。
・仏 … 名詞
・だに … 副助詞
○だに … せめて~だけでも
・よく … 副詞
・描き … カ行四段活用の動詞「描く」の連用形
・たてまつら … ラ行四段活用の動詞「たてまつる」の未然形
○たてまつる … 謙譲の補助動詞
・ば … 接続助詞
・百千 … 名詞
・の … 格助詞
・家 … 名詞
・も … 係助詞
・出で来(き) … カ行変格活用の動詞「出で来(く)」の連用形
・な … 助動詞「ぬ」強意
・む … 助動詞「む」推量
わたうたちこそ、させる能もおはせねば、
おまえさんたちこそ、それほどの才能もおありでないので、
・わたうたち … 代名詞
○わたうたち … おまえさんたち
・こそ … 係助詞
・させる … 連体詞
○させる … それほどの
・能 … 名詞
・も … 係助詞
・おはせ … サ行変格活用の動詞「おはす」の未然形
・ね … 打消の助動詞「ず」の已然形
・ば … 接続助詞
物をも惜しみたまへ。」と言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。
物も惜しみなさるのだ。」と言って、あざ笑って立っていた。
・もの … 名詞
・を … 格助詞
・も … 係助詞
・惜しみ … マ行四段活用の動詞「惜しむ」の連用形
・たまへ … ハ行四段活用の動詞「たまふ」の已然形
○たまふ … 尊敬の補助動詞
・と … 格助詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・あざ笑ひ … ハ行四段活用の動詞「あざ笑ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・こそ … 係助詞
・立て … タ行四段活用の動詞「立つ」の已然形
・り … 存続の助動詞「り」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
○「あざ笑ひて」とあるが、良秀はどのような気持ちから笑ったのか。 ⇒ 火がどのように燃えるのかを明確に知っておくことは、絵仏師を職業とする自分にとって一軒の家など比較にならないくらい大きな価値を持っているのに、そのことが分からない人々を見下げる気持ちから良秀は笑った。
その後にや、良秀がよぢり不動とて、今に人々めで合へり。
その後だろうか、良秀のよじり不動といって、今も人々が賞賛し合っている。
・そ … 代名詞
・の … 格助詞
・のち … 名詞
・に … 断定の助動詞「なり」の連用形
・や … 係助詞
・良秀 … 名詞
・が … 格助詞
・よぢり不動 … 名詞
・とて … 格助詞
・今に … 副詞
・人々 … 名詞
・めで合へ … ハ行四段活用の動詞「めで合ふ」の已然形
○めづ … 賞賛する
・り … 存続の助動詞「り」の終止形
○絵を描くことに対する、良秀のどのような姿勢がうかがわれるか。 ⇒ 絵仏師として仏画を上手に描けるようになることを他のどんなことよりも優先させる姿勢。