山に、叡実阿闍梨といひて、貴き人ありけり。
比叡山に、叡実阿闍梨といって、敬うべき人がいた。
・山 … 名詞
・に … 格助詞
・叡実阿闍梨(えいじつあじやり) … 名詞
・と … 格助詞
・いひ … ハ行四段活用の動詞「いふ」の連用形
・て … 接続助詞
・貴(とうと)き … ク活用の形容詞「貴し」の連体形
○貴し … あがめ敬うべきである
・人 … 名詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
帝の御悩み、重くおはしましけるころ、召しければ、
帝のご病気が、重くていらっしゃったころ、お呼び寄せになったので、
・帝 … 名詞
・の … 格助詞
・御悩み … 名詞
・重く … ク活用の形容詞「重し」の連用形
・おはしまし … サ行四段活用の動詞「おはします」の連用形
○おはします … 「あり」の尊敬語 ⇒ 筆者から帝への敬意
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・ころ … 名詞
・召し … サ行四段活用の動詞「召す」の連用形
○召す … お呼び寄せになる(尊敬語) ⇒ 筆者から帝への敬意
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
たびたび辞し申しけれど、重ねたる仰せ否びがたくて、
たびたびご辞退申し上げたけれども、たび重なったご命令を断りきれなくて、
・たびたび … 副詞
・辞し … サ行変格活用の動詞「辞す」の連用形
・申し … サ行四段活用の謙譲の補助動詞「申す」の連用形
○申す … 「言ふ」の謙譲語 ⇒ 筆者から帝への敬意
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ど … 接続助詞
・重ね … ナ行下二段活用の動詞「重ぬ」の連用形
・たる … 完了の助動詞「たり」の連体形
・仰せ … 名詞
・否(いな)び … バ行上二段活用の動詞「否ぶ」の連用形
・がたく … 接尾語、連用形
・て … 接続助詞
なまじひにまかりける道に、あやしげなる病人の、
しぶしぶながら参っていた道に、みすぼらしい感じの病人で、
・なまじひに … ナリ活用の形容動詞「なまじひなり」の連用形
○なまじひなり … 気が進まず、しぶしぶするさま
・まかり … ラ行四段活用の動詞「まかる」の連用形
○まかる … 「行く」の謙譲語 ⇒ 筆者から帝への敬意
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・道 … 名詞
・に … 格助詞
・あやしげなる … ナリ活用の形容動詞「あやしげなり」の連体形
○あやしげなり … 見苦しいと感じられるさま
・病人 … 名詞
・の … 格助詞
足手もかなはずして、ある所の築地のつらに平がり臥せるありけり。
足も手も動かないで、ある所の築地のあたりに腹ばいになり寝ている者がいた。
・足手 … 名詞
・も … 係助詞
・かなは … ハ行四段活用の動詞「かなふ」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の連用形
○かなはず … 思い通りにならない
・して … 接続助詞
・ある … 連体詞
・所 … 名詞
・の … 格助詞
・築地(ついぢ) … 名詞
・の … 格助詞
・つら … 名詞
○つら … かたわら、あたり
・に … 格助詞
・平(ひら)がり … ラ行四段活用の動詞「平がる」の連用形
○平がる … 伏せる
・臥せる … サ行下二段活用の動詞「臥す」の連体形
○臥す … 横たわる
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
阿闍梨これを見て、悲しみの涙を流しつつ、
阿闍梨はこれを見て、悲しみの涙を流しながら、
・阿闍梨 … 名詞
・これ … 代名詞
・を … 格助詞
・見 … マ行上一段活用の動詞「見る」の連用形
・て … 接続助詞
・悲しみ … 名詞
・の … 格助詞
・涙 … 名詞
・を … 格助詞
・流し … サ行四段活用の動詞「流す」の連用形
・つつ … 接続助詞
車より下りて、憐れみとぶらふ。
車から下りて、気の毒に思い心配して様子を聞く。
・車 … 名詞
・より … 格助詞
・下り … ラ行上二段活用の動詞「下る」の連体形
・て … 接続助詞
・憐れみ … マ行四段活用の動詞「憐れむ」の連用形
○憐れむ … 気の毒に思う
・とぶらふ … ハ行四段活用の動詞「とぶらふ」の終止形
○とぶらふ … 心配して様子を聞く
畳求めて敷かせ、上に仮屋さし覆ひ、
敷物を求めて敷かせ、上を仮の小屋で覆い、
・畳 … 名詞
○畳 … 敷物の総称
・求め … マ行下二段活用の動詞「求む」の連用形
・て … 接続助詞
・敷か … カ行四段活用の動詞「敷く」の未然形
・せ … 使役の助動詞「す」の連用形
・上 … 名詞
・に … 格助詞
・仮屋(かりや) … 名詞
○仮屋 … 仮に作った小屋
・さし覆ひ … ハ行四段活用の動詞「さし覆う」の連用形
食ひ物求めあつかふほどに、やや久しくなりにけり。
食べ物を求め面倒を見るうちに、次第に時間が経ってしまった。
・食ひ物 … 名詞
・求め … マ行下二段活用の動詞「求む」の連用形
・あつかふ … ハ行四段活用の動詞「あつかふ」の連体形
○あつかふ … 面倒を見る
・ほど … 名詞
・に … 格助詞
・やや … 副詞
○やや … だんだん
・久しく … シク活用の形容詞「久し」の連用形
○久し … 長い時間がかかる
・なり … ラ行四段活用の動詞「なる」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
勅使、「日暮れぬべし。いといと便なきことなり。」と言ひければ、
勅使が、「きっと日が暮れるだろう。非常に不都合なことだ。」と言ったので、
・勅使 … 名詞
・日 … 名詞
・暮れ … ラ行下二段活用の動詞「なる」の連用形
・ぬ … 強意の助動詞「ぬ」の終止形
・べし … 推量の助動詞「べし」の終止形
○ぬべし … きっと〜だろう
・いといと … 副詞
○いといと … 非常に、たいそう
・便なき … ク活用の形容詞「便なし」の連体形
○便なし … 都合が悪い
・こと … 名詞
・なり … 断定の助動詞「なり」の終止形
・と … 格助詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
「参るまじき。かく、その由を申せ。」と言ふ。
「参上しません。このように、その旨を申し上げなさい。」と言う。
・参る … ラ行四段活用の動詞「参る」の終止形
○参る … 参上する(謙譲語) ⇒ 叡実から帝への敬意
・まじき … 打消意志の助動詞「まじ」の連体形
・かく … 副詞
・そ … 代名詞
・の … 格助詞
・よし … 名詞
・を … 格助詞
・申せ … サ行四段活用の動詞「申す」の命令形
○申す … 「言ふ」の謙譲語 ⇒ 叡実から帝への敬意
・と … 格助詞
・言ふ … ハ行四段活用の動詞「言う」の終止形
御使ひおどろきて、ゆゑを問ふ。
ご使者は驚いて、理由を尋ねる。
・御使ひ … 名詞
・驚き … カ行四段活用の動詞「驚く」の連用形
・て … 接続助詞
・ゆゑ … 名詞
・を … 格助詞
・問ふ … ハ行四段活用の動詞「問ふ」の終止形
阿闍梨言ふやう、「世を厭ひて、心を仏道に任せしより、
阿闍梨が言うには、「俗世間を嫌って、心を仏道にささげてから、
・阿闍梨 … 名詞
・言ふ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連体形
・やう … 名詞
・世 … 名詞
・を … 格助詞
・厭(いと)ひ … ハ行四段活用の動詞「厭ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・心 … 名詞
・を … 格助詞
・仏道 … 名詞
・に … 格助詞
・任せ … サ行下二段活用の動詞「任す」の連用形
○任す … ゆだねる
・し … 過去の助動詞「き」の連体形
・より … 格助詞
帝の御事とてもあながちに貴からず。
帝に関する事柄といっても必ずしも尊くはありません。
・帝 … 名詞
・の … 格助詞
・御事 … 名詞
○御事 … 高貴な人に関する事柄
・とて … 格助詞
・も … 係助詞
・あながちに … ナリ活用の形容動詞「あながちなり」の連用形
○あながちに(~打消) … 必ずしも(〜ない)
・貴から … ク活用の形容詞「貴し」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形
かかる病人とてもまたおろかならず。
このような病人といってもまたおろそかではありません。
・かかる … ラ行変格活用の動詞「かかり」の連体形
・病人 … 名詞
・とて … 格助詞
・も … 係助詞
・また … 副詞
・おろかなら … ナリ活用の形容動詞「おろかなり」の未然形
○おろかなり … おろそかである
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形
ただ同じやうにおぼゆるなり。
まるで同じように思われるのです。
・ただ … 副詞
○ただ … ちょうど、まるで
・同じ … シク活用の形容詞「同じ」の連体形
・やうに … 比況の助動詞「やうなり」の連用形
・おぼゆる … ヤ行下二段活用の動詞「おぼゆ」の連体形
・なり … 断定の助動詞「なり」の終止形
それにとりて、君の御祈りのため、
それについて、帝のお祈りのために、
・それ … 代名詞
・に … 格助詞
・とり … ラ行四段活用の動詞「とる」の連用形
・て … 接続助詞
○~にとりて … ~に関して
・君 … 名詞
○君 … 天皇
・の … 格助詞
・御祈り … 名詞
・の … 格助詞
・ため … 名詞
験あらん僧を召さんには、
祈祷の効き目がある僧侶をお呼び寄せになるとすれば、
・験(しるし) … 名詞
○験 … 祈祷の効きめ
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
・ん … 婉曲の助動詞「ん」の連体形
・僧 … 名詞
・を … 格助詞
・召さ … サ行四段活用の動詞「召す」の未然形
○召す … お呼び寄せになる(尊敬語) ⇒ 叡実から帝への敬意
・ん … 仮定の助動詞「ん」の連体形
・に … 格助詞
・は … 係助詞
山々寺々に多かる人、たれかは参らざらん。
山々や寺々に大勢いる人で、誰が参上しないでしょうか(誰でも参上する)。
・山々 … 名詞
・寺々 … 名詞
・に … 格助詞
・多かる … ク活用の形容詞「多し」の連体形
・人 … 名詞
・たれ … 代名詞
・かは … 係助詞
・参ら … ラ行四段活用の動詞「参る」の未然形
○参る … 参上する(謙譲語) ⇒ 叡実から帝への敬意
・ざら … 打消の助動詞「ず」の未然形
・ん … 推量の助動詞「ん」の終止形
さらにこと欠くまじ。
決して(祈祷の効き目がある僧侶に)不自由しないでしょう。
・さらに … 副詞
○さらに(~打消) … 決して(〜ない)
・こと欠く … カ行四段活用の動詞「こと欠く」の終止形
○こと欠く … ないために不自由する
・まじ … 打消推量の助動詞「まじ」の終止形
「こと欠く」とはどういうことか。 ⇒ 祈祷の効き目がある僧侶に不自由すること。
この病者にいたりては、厭ひ汚む人のみありて、
この病者にいたっては、嫌い見苦しがる人だけがあって、
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・病者 … 名詞
・に … 格助詞
・いたり … ラ行四段活用の動詞「いたる」の連用形
・て … 接続助詞
・は … 係助詞
・厭ひ … ハ行四段活用の動詞「厭ふ」の連用形
○厭ふ … いやがる
・汚(きたな)む … マ行四段活用の動詞「汚む」の連体形
○汚む … 見苦しがる
・人 … 名詞
・のみ … 副助詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・て … 接続助詞
近づきあつかふ人はあるべからず。
近づき面倒を見る人はあるはずがありません。
・近づき … カ行四段活用の動詞「近づく」の連用形
・あつかふ … ハ行四段活用の動詞「あつかふ」の連用形
○あつかふ … 面倒を見る
・人 … 名詞
・は … 係助詞
・ある … ラ行変格活用の動詞「あり」の連体形
・べから … 推量の助動詞「べし」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形
もし我捨てて去りなば、
もし私が見捨てて立ち去ったなら、
・もし … 副詞
・我 … 名詞
・捨て … タ行下二段活用の動詞「捨つ」の連用形
○捨つ … 放置する
・て … 接続助詞
・去り … ラ行四段活用の動詞「去る」の連用形
・な … 完了の助動詞「ぬ」の未然形
・ば … 接続助詞
ほとほと寿も尽きぬべし。」とて、かれをのみ
ほとんど間違いなく命も尽きるでしょう。」と言って、その人だけを
・ほとほと … 副詞
○ほとほと … ほとんど
・寿(いのち) … 名詞
○寿 … 生命
・も … 係助詞
・尽き … カ行上二段活用の動詞「尽く」の連用形
・ぬ … 完了の助動詞「ぬ」の終止形
・べし … 推量の助動詞「べし」の終止形
○ぬべし … きっと〜だろう
・とて … 格助詞
・かれ … 代名詞
○かれ … その人
・を … 格助詞
・のみ … 副助詞
憐れみ助くる間に、つひに参らずなりにければ、
憐れみ助けている間に、とうとう参上しないままになってしまったので、
・憐れみ … マ行四段活用の動詞「憐れむ」の連用形
・助くる … カ行下二段活用の動詞「助く」の連体形
・間 … 名詞
・に … 格助詞
・つひに … 副詞
・参ら … ラ行四段活用の動詞「参る」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の連用形
・なり … ラ行四段活用の動詞「なる」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
時の人、ありがたきことになん言ひける。
当時の人は、尊く優れていることだと言った。
・時 … 名詞
・の … 格助詞
・人 … 名詞
○時の人 … その当時の人
・ありがたき … ク活用の形容詞「ありがたし」の連体形
○ありがたし … 尊く優れている
・こと … 名詞
・に … 格助詞
・なん … 係助詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
この阿闍梨、終りに往生を遂げたり。
この阿闍梨は、死ぬ時に往生を遂げた。
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・阿闍梨 … 名詞
・終はり … 名詞
○終はり … 臨終
・に … 格助詞
・往生 … 名詞
・を … 格助詞
・遂げ … ガ行下二段活用の動詞「遂ぐ」の連用形
・たり … 完了の助動詞「たり」の終止形
くはしく伝にあり。
詳しく『続本朝往生伝』にある。
・くはしく … シク活用の形容詞「くはし」の連用形
・伝 … 名詞
・に … 格助詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の終止形