すける物思ひ・伊勢

昔、若き男、けしうはあらぬ女を思ひけり。
昔、若い男が、容貌が悪いとはいえない女を愛した。
・昔 … 名詞
・若き … ク活用の形容詞「若し」の連体形
・男 … 名詞
・けしう … シク活用の形容詞「けし」の連用形(音便)
・は … 係助詞
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
・ぬ … 打消の助動詞「ず」の連体形
・女 … 名詞
・を … 格助詞
・思ひ … ハ行四段活用の動詞「思ふ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形

さかしらする親ありて、思ひもぞつくとて、
さしでがましいことをする親がいて、思慕の情がつくといけないと思って、
・さかしら … 名詞
・する … サ行変格活用の動詞「す」の連体形
・親 … 名詞
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・て … 接続助詞
・思ひ … 名詞
・も … 係助詞
 … 係助詞・強調
・つく … カ行四段活用の動詞「つく」の連体形(結び)
・とて … 格助詞

この女をほかへ追ひやらむとす。
この女をよそへ追い出そうとする。
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・女 … 名詞
・を … 格助詞
・ほか … 名詞
・へ … 格助詞
・追ひやら … ラ行四段活用の動詞「追ひやる」の未然形
・む … 意志の助動詞「む」の終止形
・と … 格助詞
・す … サ行変格活用の動詞「す」の収支形

さこそいへ、まだ追ひやらず。
そうはいっても、まだに追い出さないでいる。
・さ … 副詞
・こそ … 係助詞
・いへ … ハ行四段活用の動詞「いふ」の已然形
・まだ … 副詞
・追ひやら … ラ行四段活用の動詞「追ひやる」の未然形
・ず … 打消の助動詞「ず」の終止形

人の子なれば、まだ心勢ひなかりければ、とどむる勢ひなし。
親がかりだったので、まだ意思を通す強い気持ちがなかったので、止める力がない。
・人 … 名詞
・の … 格助詞
・子 … 名詞
・なれ … 断定の助動詞「なり」の已然形
・ば … 接続助詞
・まだ … 副詞
・心勢ひ … 名詞
・なかり … ク活用の形容詞「なし」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・とどむる … マ行下二段活用の動詞「とどむ」の連用形
・勢ひ … 名詞
・なし … ク活用の形容詞「なし」の終止形

女もいやしければ、すまふ力なし。
女も低い身分なので、抵抗する力がない。
・女 … 名詞
・も … 係助詞
・いやしけれ … シク活用の形容詞「いやし」の已然形
・ば … 接続助詞
・すまふ … ハ行四段活用の動詞「すまふ」の連体形
・力 … 名詞
・なし … ク活用の形容詞「なし」の終止形

さる間に、思ひはいやまさりにまさる。
そのうちに、恋しい思いはますます増さる。
・さる … 連体詞
・間 … 名詞
・に … 格助詞
・思ひ … 名詞
・は … 係助詞
・いやまさりに … 副詞
・まさる … ラ行四段活用の動詞「まさる」の終止形

にはかに、親この女を追ひうつ。
急に、親がこの女を追い出そうとする。
・にはかに … ナリ活用の形容動詞「にはかなり」の連用形
・親 … 名詞
・こ … 代名詞
・の … 格助詞
・女 … 名詞
・を … 格助詞
・追ひうつ … タ行四段活用の動詞「追ひうつ」の終止形

男、血の涙を流せども、とどむるよしなし。
男は、血の涙を流すが、止める方法がない。
・男 … 名詞
・血 … 名詞
・の … 格助詞
・涙 … 名詞
・を … 格助詞
・流せ … サ行四段活用の動詞「流す」の已然形
・ども … 接続助詞
・とどむる … マ行下二段活用の動詞「とどむ」の連体形
・よし … 名詞
・なし … ク活用の形容詞「なし」の終止形

率て出でていぬ。
連れて出て行った。
・率 … ワ行上一段活用の動詞「率る」の連用形
・て … 接続助詞
・出で … ダ行下二段活用の動詞「出づ」の連用形
・て … 接続助詞
・いぬ … ナ行変格活用の動詞「いぬ」の終止形

男、泣く泣く詠める、
男が、泣く泣く詠んだ、
・男 … 名詞
・泣く泣く … 副詞
・詠め … マ行四段活用の動詞「詠む」の命令形
・る … 完了の助動詞「り」の連体形

  出でていなば誰か別れの難からむ
  自分から出て行くのならば、誰が別れたくないと思うだろうか。
  ・出で … ダ行下二段活用の動詞「出づ」の連用形
  ・て … 接続助詞
  ・いな … ナ行変格活用の動詞「いぬ」の未然形
  ・ば … 接続助詞
  ・誰 … 代名詞
  ・ … 係助詞・反語
  ・別れ … 名詞
  ・の … 格助詞
  ・難から … ク活用の形容詞「難し」の未然形
  ・む … 推量の助動詞「む」の連体形(結び)

  ありしにまさる今日は悲しも
  以前にもまさって、今日は悲しいことだよ。
  ・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
  ・し … 過去の助動詞「き」の連体形
  ・に … 格助詞
  ・まさる … 行四段活用の動詞「まさる」の連体形
  ・今日 … 名詞
  ・は … 係助詞
  ・悲し … シク活用の形容詞「悲し」の終止形
  ・も … 終助詞

と詠みて、絶え入りにけり。
と詠んで、気絶してしまった。
・と … 格助詞
・詠み … マ行四段活用の動詞「詠む」の連用形
・て … 接続助詞
・絶え入り … ラ行四段活用の動詞「絶え入る」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形

親あわてにけり。
親はあわててしまった。
・親 … 名詞
・あわて … タ行下二段活用の動詞「あわつ」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形

なほ思ひてこそ言ひしか、いとかくしもあらじと思ふに、
やはり子のためを思って言ったのだが、まさかこれほどではないだろうと思っていたのに、
・なほ … 副詞
・思ひ … ハ行四段活用の動詞「思ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・こそ … 係助詞
・言ひ … ハ行四段活用の動詞「言ふ」の連用形
・しか … 過去の助動詞「き」の已然形
・いと … 副詞
・かく … 副詞
・しも … 副助詞
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
・じ … 打消推量の助動詞「じ」の終止形
・と … 格助詞
・思ふ … ハ行四段活用の動詞「思ふ」の連体形
・に … 接続助詞

真実に絶え入りにければ、惑ひて願立てけり。
ほんとうに気絶してしまったので、うろたえて願を立てた。
・真実に … ナリ活用の形容動詞「真実なり」の連用形
・絶え入り … ラ行四段活用の動詞「絶え入る」の連用形
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・惑ひ … ハ行四段活用の動詞「惑ふ」の連用形
・て … 接続助詞
・願 … 名詞
・立て … タ行下二段活用の動詞「立つ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形

今日の入相ばかりに絶え入りて、またの日の戌の時ばかりになむ、からうじて生き出でたりける。
今日の日暮れごろに気絶して、翌日の戌の時ぐらいに、やっとのことで息を吹き返したのだった。
・今日 … 名詞
・の … 格助詞
・入相 … 名詞
・ばかり … 副助詞
・に … 格助詞
・絶え入り … ラ行四段活用の動詞「絶え入る」の連用形
・て … 接続助詞
・また … 副詞
・の … 格助詞
・日 … 名詞
・の … 格助詞
・戌の時 … 名詞
・ばかり … 副助詞
・に … 格助詞
なむ … 係助詞・強調
・からうじて … 副詞
・生き出で … 行下二段活用の動詞「生き出づ」の連用形
・たり … 完了の助動詞「たり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形(結び)

昔の若人は、さるすける物思ひをなむしける。
昔の若者は、そういういちずに異性を好む物思いをしたものだ。
・昔 … 名詞
・の … 格助詞
・若人 … 名詞
・は … 係助詞
・さる … 連体詞
・すけ … カ行四段活用の動詞「すく」の命令形
・る … 存続の助動詞「り」の連体形
・物思ひ … 名詞
・を … 格助詞
なむ … 係助詞・強調
・し … サ行変格活用の動詞「す」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形(結び)

今の翁、まさにしなむや。
現代の老人は、どうしてそんな物思いをするだろうか。
・今 … 名詞
・の … 格助詞
・翁 … 名詞
・まさに … 副詞
・し … サ行変格活用の動詞「す」の連用形
・な … 強意の助動詞「ぬ」の未然形
・む … 推量の助動詞「む」の終止形
・や … 係助詞

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