成範卿、ことありて、召し返されて、内裏に参ぜられたりけるに、
成範卿が、事件があって、お呼び返しになって、宮中に参上なさった時に、
・成範卿(しげのりきよう) … 名詞
・事 … 名詞
○事 … 事件
・あり … ラ行変格活用の動詞「あり」の連用形
・て … 接続助詞
・召し返さ … サ行四段活用の動詞「召し返す」の連体形
○召し返す … お呼び返しになる(尊敬語) ⇒ 筆者から帝への敬意
・れ … 受身の助動詞「る」の連用形
・て … 接続助詞
・内裏(だいり) … 名詞
○内裏 … 天皇の住む御殿
・に … 格助詞
・参ぜ … ザ行下二段活用の動詞「参ず」の未然形
○参ず … 「行く」の謙譲語 ⇒ 筆者から帝への敬意
・られ … 尊敬の助動詞「らる」の連用形 ⇒ 筆者から成範卿への敬意
・たり … 完了の助動詞「たり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・に … 接続助詞
昔は女房の入り立ちなりし人の、
昔は女房の台盤所への立ち入りを許されていた人が、
・昔 … 名詞
・は … 係助詞
・女房 … 名詞
・の … 格助詞
・入り立ち … 名詞
○入り立ち … 女房の詰め所への出入りを許された人
・なり … 断定の助動詞「なり」の連用形
・し … 過去の助動詞「き」の連体形
・人 … 名詞
・の … 格助詞
今はさもあらざりければ、女房の中より、昔を思ひ出でて、
今はそうではなかったので、女房の中から、昔を思い出して、
・今 … 名詞
・は … 係助詞
・さ … 副詞
・も … 係助詞
・あら … ラ行変格活用の動詞「あり」の未然形
・ざり … 打消の助動詞「ず」の連用形
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
・女房 … 名詞
・の … 格助詞
・中 … 名詞
・より … 格助詞
・昔 … 名詞
・を … 格助詞
・思ひ出で … ダ行下二段活用の動詞「思ひ出づ」の連用形
・て … 接続助詞
雲の上はありし昔に変はらねど
雲の上といわれる宮中は過ぎ去った昔と変わりませんが
・雲の上 … 名詞
○雲の上 … 宮中
・は … 係助詞
・ありし … 連体詞
○ありし … 以前の
・昔 … 名詞
・に … 格助詞
・変はら … ラ行四段活用の助動詞「変はる」の連用形
・ね … 打消の助動詞「ず」の已然形
・ど … 接続助詞
見し玉垂れの内や恋しき
昔見た御簾の内側が恋しくはありませんか
・見 … マ行上一段活用の助動詞「見る」の連用形
・し … 過去の助動詞「き」の連体形
・玉垂(たまだ)れ … 名詞
○玉垂れ … 御簾
・の … 格助詞
・内 … 名詞
・や … 係助詞・疑問
・恋しき … シク活用の形容詞「恋し」の連体形(結び)
とよみ出だしたりけるを、返事せんとて、
と詠んで出したので、返歌をしようと思って、
・と … 格助詞
・よみ出だし … サ行四段活用の助動詞「よみ出だす」の連用形
・たり … 完了の助動詞「たり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・を … 接続助詞
・返事せ … サ行変格活用の助動詞「返事す」の連用形
・ん … 意志の助動詞「ん」の連体形
・とて … 格助詞
灯籠のきはに寄りけるほどに、小松大臣の参り給ひければ、
灯籠のすぐそばに寄ったところ、小松大臣が参上なさったので、
・灯籠(とうろう) … 名詞
○灯籠 … 主に屋外で用いる照明器具
・の … 格助詞
・きは … 名詞
・に … 格助詞
・寄り … ラ行四段活用の助動詞「寄る」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
・ほどに … 接続助詞
・小松大臣(こまつのおとど) … 名詞
・の … 格助詞
・参り … ラ行四段活用の動詞「参る」の連用形
○参る … 宮中に参上する(謙譲語) ⇒ 筆者から帝への敬意
・給(たま)ひ … ハ行四段活用の動詞「給ふ」の連用形
○給ふ … 尊敬の補助動詞 ⇒ 筆者から小松大臣への敬意
・けれ … 過去の助動詞「けり」の已然形
・ば … 接続助詞
急ぎ立ちのくとて、灯籠の火のかき上げの木の端にて、
急いで立ち去ろうと思って、灯籠の火をかき上げるための木の端で、
・急ぎ … ガ行四段活用の動詞「急ぐ」の連用形
・立ちのく … カ行四段活用の動詞「立ちのく」の連体形
・とて … 格助詞
・灯籠 … 名詞
・の … 格助詞
・火 … 名詞
・の … 格助詞
・かき上げの木 … 名詞
・の … 格助詞
・端(はし) … 名詞
・にて … 格助詞
「や」文字を消ちて、そばに「ぞ」文字を書きて、
「や」という文字を消して、そばに「ぞ」という文字を書いて、
・「や」文字 … 名詞
・を … 格助詞
・消ち … タ行四段活用の動詞「消つ」の連用形
・て … 接続助詞
・そば … 名詞
・に … 格助詞
・「ぞ」文字 … 名詞
・を … 格助詞
・書き … カ行四段活用の動詞「書く」の連用形
・て … 接続助詞
御簾の内へ差し入れて、出でられにけり。
御簾の中に差し入れて、出てお行きになった。
・御簾(みす) … 名詞
・の … 格助詞
・内 … 名詞
・へ … 格助詞
・差し入れ … ラ行下二段活用の動詞「差し入る」の連用形
・て … 接続助詞
・出で … ダ行下二段活用の動詞「出づ」の未然形
・られ … 尊敬の助動詞「らる」の連用形 ⇒ 筆者から成範卿への敬意
・に … 完了の助動詞「ぬ」の連用形
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
女房取りて見るに、「ぞ」文字一つにて返しをせられたりける、
女房が取ってみると、「ぞ」という文字一つで返歌をなさっていた、
・女房 … 名詞
・取り … ラ行四段活用の動詞「取る」の連用形
・て … 接続助詞
・見る … マ行上一段活用の動詞「見る」の連体形
・に … 接続助詞
・「ぞ」文字 … 名詞
・一つ … 名詞
・にて … 格助詞
・返し … 名詞
○返し … 返歌
・を … 格助詞
・せ … サ行変格活用の動詞「す」の未然形
・られ … 尊敬の助動詞「らる」の連用形 ⇒ 筆者から成範卿への敬意
・たり … 完了の助動詞「けり」の連用形
・ける … 過去の助動詞「けり」の連体形
ありがたかりけり。
めったにないほど優れていた。
・ありがたかり … ク活用の形容詞「ありがたし」の連用形
○ありがたし … めったにないほど優れている
・けり … 過去の助動詞「けり」の終止形
○「や」と「ぞ」の違い ⇒ 「や」は疑問の係助詞なので、「玉垂れの内や恋しき」は、御簾の内側が恋しいですかと、女房が成範卿に問いかけたことになります。
次に、「ぞ」は強調の係助詞なので、「玉垂れの内ぞ恋しき」は、御簾の内側がとても恋しいですと、成範卿が女房の問いかけに答えたことになります。
つまり、成範卿は、女房の歌の「や」を「ぞ」に変えることで、女房の歌に対する適確な返歌をしたことになるのです。筆者が「ありがたし」と評価した理由です。